世界一の刃物作りに一生を捧げた三条市の偉人 岩崎航介氏の軌跡

明治36年1月1日、代々刃物問屋を営んでいた三条町二ノ町 岩崎又造の二男として生まれる。

第一次大戦後、復興してきたドイツとの商戦に敗れ、家業が大きく傾いてしまう。

大正11年3月、旧制新潟高等学校を卒業後、父を助けるため、兄と一緒に家業に入る。当時、三条の工業、特に刃物を見て、"このままでは絶対にドイツには勝てない。勝つためには世界一の刃物と言われた日本刀の秘密を解明し、それを応用してナイフ、剃刀、小刀、鋏類を作ればドイツに勝つことができる"と決意する。

大正11年刀剣研師、永野才二師の下に入門、刀の研ぎを学ぶ。さらに日本刀の秘伝書である古文書を読む必要性を強く感じ、大正14年、逗子開成中学校の講師となり生活の糧を得ながら、東京大学文学部国史学科に入学。この間も刀匠、野村正勝師、堀井俊秀師の下で刀剣の鍛法を学ぶ。

昭和3年国史学科を卒業すると今度は日本刀の製法を科学的に研究するため、東京大学工学部冶金科に再入学。大学院でも研究を重ね、昭和20年三条市に帰郷。日本刀、切込刀製作のため奔走する。

昭和22年三条製作所を設立、刃物の研究に従事。

昭和26年日本金属製品貿易協会を設立、専務理事を兼務しながら日本刀の材料であり、不純物の非常に少ない玉鋼(たまはがね)を使用した打刃物の研究に没頭する。

昭和28年、玉鋼の研究が認められ通産省より鉱工業技術研究補助金の交付を受ける。これをきっかけに製造体制が整い、昭和29年12月、玉鋼を使用した世界最高の切れ味を保つ剃刀(かみそり)の製造に成功。

その後も剃刀の製造、研究の傍ら、刃物鍛冶職人へ「金属顕微鏡」を使った科学的分析を伴う画期的な刃物作りの指導を続け、地元メーカーの技術及び品質向上に大きく貢献する。

昭和41年宮内庁正倉院刀身調査員を拝命。

正倉院の刃物類、刀剣類の科学的調査を進めている最中の昭和42年8月、癌再発のため他界。

享年64歳。


〈引用〉

三条金物青年会発行 岩崎航介著「刃物の見方」